常陸国風土記ゆかりの地巡り(稲敷市編①黒坂命古墳・景行天皇行在所跡・陸平貝塚)
先日、半年ぶりに
常陸国風土記(奈良時代に編纂された、現在の茨城県にあたる場所の地誌。各地域の土地の様子や特産物、その土地に伝わる伝承などが書かれている)ゆかりの地巡りに行ってきました。
(以前に行った場所についてのブログはこちら↓)
常陸国風土記に、「信太郡」という現在の稲敷市辺りについて書かれた章があります。
今回は信太郡の章に書かれている場所の遺称地(遺跡や遺構があったと伝えられる場所)をぐるっと周ってみよう!と意気込んで出発。
黄色線で囲っている辺りが今回巡った場所です↓
(現在では、稲敷市・美浦村・阿見町辺りになります)

Contents
黒坂命古墳
「黒坂命」は常陸国風土記に登場する将軍。
『茨城』や『信太』という地名の由来にも関わっています。
今回は信太郡の章がメインなので、茨城郡の章に書かれている茨城という地名由来エピソードについては簡単に。
2つのエピソードが書かれているのですが、
①昔、山の佐伯・野の佐伯という穴倉で生活している、暴虐で盗みを働く先住民がおり、黒坂命は彼らが穴の外に出ている隙に茨棘を穴の中に敷き、騎兵で彼らを攻めた。慌てて穴倉に戻った山の佐伯・野の佐伯は茨棘に刺されて傷を負い、死んだりして、散り散りになった。そこで茨棘という名を県につけた。
②山の佐伯・野の佐伯という賊の頭目がおり、仲間を引き連れて暴虐の限りを尽くしていたので、黒坂命は計略をもって彼らを滅ぼそうと茨で城を作った。そこで地名を茨城にした。
というようなお話です。
茨棘を武器にするとは。
調べてみると、①②それぞれ伝承が残る地が茨城県内にあるので、そちらに行った際にまた詳しく書きたいと思います。
信太郡の章では、
黒坂命が奥州の蝦夷を討伐し凱旋した際に、多珂郡の角枯山(つのかれやま)というところで病死してしまったこと。そのため角枯山を黒前山(くろさきやま)と改名したこと。黒坂命の棺をのせた葬送の車が黒前山を出発し故郷へと帰っていく様子が描かれ、その飾りの旗が風にひるがえる様子から信太(しだ)という地名がつけられたことが書かれています。
常陸国風土記 信太郡
黒坂命、陸奥の蝦夷を征討事ありき。凱旋りて、多歌郡の角枯之山に及るに、黒坂命病に遇いて身故(みまか)りたまふ。爰(ここ)に、角枯を改めて、黒前山と号(なず)く。黒坂命の輸轜車(きくるま)、黒前之山より発(た)ちて、日高之国に到るに、葬具の儀、赤旗・青幡、交雑り飄颺(ひるがへ)りて、雲と飛び虹と張り、野を瑩(て)らし栄路(みち)を耀かせり。時の人、「赤幡垂(あかはたしだ)る国」と謂ひき。後世の言に、便ち改めて信太国(しだのくに)と称ふ。
(「風土記(上)」角川ソフィア文庫 訓読文より引用させて頂きました)
常陸国風土記の中でも、個人的にかなり印象に残る場面。
文章の感じが好き。
現代語訳を一部引用させていただくと、
葬列の飾りものは、赤旗、白旗と入り交じり、風に吹き上げられひるがえって、雲が飛ぶ如く虹がかかる如く、野を照らし、葬送の路(みち)を輝かせた。
(「風土記(上)」角川ソフィア文庫 現代語訳より引用させて頂きました)
青空に様々な色の旗を美しくひるがえして進む葬列の様子を映画風に想像すると、、、
なんだかグッときます(笑)。
黒坂命が亡くなった「黒前山」は、現在では日立市にある「竪破山」のことだと言われています。
黒坂命が葬られたと考えられる古墳がこちら↓
大塚古墳や弁天塚古墳ともよばれています。

駐車場はありません。
お隣りはすぐ民家。お庭で作業をされていた紳士にご挨拶をして、鳥居の前に駐車させていただきました。


説明によると、弘化4年に古墳の中腹にあった稲荷社を塚上に移す際、ご遺体がおさめられた石棺や副葬品が出土したことが、江戸時代末期の国学者色川三中によって記録されています。
出土品は残っていないよう。残っていたら、色々と詳しいことがわかったんだろうなぁと残念に思う気持ちが少し。
古墳は綺麗に管理されていました。


景行天皇行在所跡
やはり飲み水は貴重だったのか、常陸国風土記には湧き水や井戸など、水に関する記述も多くあります。
常陸国風土記 信太郡
…
郡役所の北十里に碓井(うすい)がある。古老が言うには、大足日子天皇(景行)が浮島の帳(とばり)の宮に御幸なさったところ、差し上げるお水がなかった。すぐに卜(うらな)いをする者を遣わして吉と出るところを数か所お掘らせになった。今も卜に合った井が雄栗(おくり)の村に残っている。…(「風土記(上)」角川ソフィア文庫 現代語訳より引用させて頂きました)
ヤマトタケルの父である景行天皇が亡くなった息子を偲び、浮島の帳の宮(仮宮)に行幸した際、差し上げる飲み水がなく、占いをして井戸を掘り、その井戸が雄栗村に残っているという話が書かれています。
茨城県稲敷市には「浮島」という地域があり、「島」という名前通り、かつては霞ヶ浦に浮かぶ小さな島だったそうです(近年の干拓事業によって現在では地続きになっています)。
その浮島にある、景行天皇が行幸された際の仮宮「浮島の帳の宮」の遺称地に行ってきました。

県道206号を車で走っていると、小さな看板がでてきます。


看板が示す道に入り進んでいくと、すぐに到着。
駐車場はありませんが、景行天皇行在所跡の入口辺りに車をとめられるスペースが十分にあります。
看板に小さく「思いやり道路」と書かれていて、どういうことだろう?と思ったのですが、地図を見ると景行天皇行在所跡に行くための道を作ったということかな。
とても感謝なのです。
緑が繁茂する時期なので、入口は背が高い草でふさがれていました。
草を搔き分けて階段へと進みます。

入口にあった説明板。

階段を上っていくと、

広場に出て、

真ん中あたりに石碑が立っていました。

ここが景行天皇の仮宮があったと伝えられる場所.。.:*・'(*°∇°*)’・*:.。.
あるのは石碑のみですが、思わず見惚れてしまうような立派な大木があったりで、いい森林浴になりました。

陸平貝塚
景行天皇が浮島の仮宮に行幸した際、飲料水がなかったため、占いで場所を探して井戸を掘り、その井戸が雄栗村に残っているという内容でしたが、
その井戸の遺称地が、現在の陸平貝塚公園内にある「ぶくぶく水」といわれています。
(茨城県による「常陸国風土記」のサイト⇒「ぶくぶく水」)
陸平貝塚公園のサイト⇒美浦村公式サイト
結構広いです。

「ぶくぶく水」がお目当てなので、里山交流館の近くにあるぶくぶく水と地図Dの貝塚を見て帰ろうと思っていたのですが、、、、、途中からはっきりとした道がなくなってしまいました。進む方向がわからず戸惑います。

作業をしている方々がいらっしゃったので、貝塚への道を尋ねると、まっすぐ進むと階段があり、その先に貝塚があるとのこと。ホッとしました。

この辺りには多くの動物や植物が生息しているようです。


更に進んでいくと、石碑と案内板が。


説明によると、こちらの陸平貝塚は日本屈指の大貝塚とのこと。
縄文時代の人たちが、当時「海」であった霞ヶ浦で貝を採り、捨てた貝殻が堆積されたのがこちらの貝塚で、縄文時代早期から後期(約8000年前から3500年前)にわたって形成されたとのこと。約4500年分の歴史があるということでしょうか!すごい!
などと思っていたら、こんな案内が。

イノシシのせいで、ぶくぶく水に行けない(´;ω;`)
いや、2か所あったはず。
と思っていたら、

竪穴住居を復元したものが。

住居の中は見学することができませんでしたが、なるほどこんな感じのお家に住んでいたんだなぁ。結構しっかりとしたお家のイメージでした。
あれ?地図を確認すると復元竪穴住居は公園の一番奥の辺り。
いつの間にここまで来てしまったのか。
ぶくぶく水、もう1ヵ所も完全に通り過ぎていました(´・ω・`)
戻るに戻れず、今回は断念。
ぶくぶく水は見れませんでしたが、ここが常陸国風土記にでてきた雄栗村があったと思われる場所。
ここから先程の景行天皇行在所跡まで水を運んだのだなぁなどと想いを馳せました。
ちなみに、景行天皇行在所跡から陸平貝塚までは車で約20分。近くはない距離です。
後日調べたところ、階段があった辺りは貝塚観察木道という場所でした。
道に貝殻が落ちており、
「貝塚だから、遊歩道に貝殻が散りばめられているのかな?おしゃれ」と勝手に思っていたのですが、どうやら貝塚の貝だったよう!
間近で貝塚の貝を観察できるという貴重な遊歩道でした。
しっかりと見ればよかった!(≧血≦;) グォオオオッ!!
今度ぶくぶく水に再チャレンジした時はしっかり観察しようと思います。
陸平貝塚公園自体は、自然が豊かでとてもいい所でした♪
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